長谷川造園事務所

2012年 3月

「建築史的モンダイ」藤森照信 ちくま新書 ISBN978-4-480-06429-5 740円+税
 建築探偵である藤森氏のモンダイ本です。鉄筋コンクリートは植木屋の発明だった。1849年フランスの植木屋のおやじジョゼフ・モニエが鉄線入りの植木鉢を作った。日本では、昭和初期、徳島の庭師三河義行がコンクリをこねて、岩山のやうな離れや犬小屋を作った。植木屋もやりますね。
 コンクリの打放しについても書いています。フランスの建築家オーギュスト・ペレが打放しコンクリートの父であった。1923年パリのル・ランシー教会が打放しの始めです。そのあとに続くのが、アントニン・レーモンドです。前にも書きましたが、レーモンドはフランク・ロイド・ライトのスタッフとして、大正八年、帝国ホテル建設のため日本に来ています。ホテル建設途中にライトと喧嘩して日本で独立します。その事務所にいたのが杉山雅則氏です。私長谷川満男は1990年頃杉山邸において庭の仕事をしていました。
 藤森氏は杉山氏にインタビュウしています。
”そのころおやじは渡欧してペレの事務所を訪れ、よほど感激したらしく、帰国してからしきりにそのことを話してくれた。そしてペレの事務所にいたチェコ人のフォイエルシュタインを日本に呼んだ。”(注;そのこととは、打放しコンクリートのことです。)
 1924年レーモンドが自邸を打放しコンクリートで作る。レーモンドの自邸を担当したのが杉山氏です。これが日本初の打放しです。さういへば杉山氏の自邸も打放しでした。
 1932年ペレの弟子ル・コルビュジエがスイス学生会館を打放しで作る。
 戦後レーモンドの弟子前川國男や、前川の弟子丹下健三が打放しをやる。そしてその後に安藤忠雄が出てきます。
 余談ですが、レーモンドは第二次世界大戦中はアメリカに帰っています。その時アメリカ軍の要請で、砂漠の中に実物大の日本の下町を作っています。そしてどのやうに燃えるか実験しています。それがあの下町の大惨事になるのです。
 戦後レーモンドは日本に戻っています。建築家としての生涯を日本ですごしています。どのやうな思いだったのか。

月と日本建築 桂離宮から月を観る  宮元健次 光文社新書 700円+税

中秋の名月の月の出が1615年は東南29度であった。これは桂離宮の建物の方位と一致します。桂離宮には月見台があります。そして月を観る窓があります。その窓の下には戸があり、足が出るやうになっています。
私も桂離宮、修学院離宮、京都御所と見学にまわった事がありました。これらは宮内庁の管理のせいか、見学者の列の後ろには 常に私服の刑事がついていました。もしかしたら怪しい私を見張っていたのかもしれません。冗談ですが。
 修学院離宮を見学していた時です。この離宮は上中下と三段回になっています。山の中です。まわりは畑です。すぐそばで農作業をしている人がみえます。私たちが見学していると向こうから若いアベックが歩いてきました。この離宮は宮内庁への申し込み制で一般の人は入れません。このアベックはすぐさま私服刑事に連行されました。この二人の運命やいかにもタコにも。

織部灯篭をお売り致します。値段は30万円です。お庭まで据え付けにまいります。

帝国ホテル・ライト館の謎 天才建築家と日本人たち 山口由美 集英社新書 660円+税

サイモン&ガーファンクルが初期の作品で「フランク・ロイド・ライト」を唄っていました。1970年代です。リアルタイムでこの唄を聴いていました。こんなに有名な建築家とは思いませんでした。日本で帝国ホテルを造っていたなんて、そしてそのホテルの開業の日に関東大震災が起きるとは。

ライトは日本に来るとき、アントニン・レーモンドを連れてきました。レーモンドを弟子と言う人がいますが、仲間のような協力者のような人です。ライトとレーモンドは帝国ホテル建設のとき喧嘩別れしてしまいます。レーモンドはそのまま日本に住み、建築事務所を開きます。その事務所で働いていたのが、若き杉山雅則氏です。私は武蔵野市吉祥寺南町の杉山邸で庭の仕事をしていました。杉山邸はコンクリの打ちっぱなしです。奥様はお茶の先生でした。もちろん茶室がありました。その茶室は「如庵」そっくりに造られていました。家の中は段が多くありました。私が何故こんなに段が多いのか杉山氏に尋ねました。すると、氏は「歳をとっても足腰が弱くならないように」と言いました。本当かどうか分かりませんが。

 

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